たりないくらし

起床。布団の上に感じるずっしりとした重みは猫3匹分のそれだ。いつか圧死するんじゃないかと思えるほどにみんな立派にすくすくと育っている。いや、寝圧死か。発音にすると、ネアッシ。横棒一本付け足せば、新種のUMAのようにも見える。オカルトマニアにはたまらない寝死にスタイル決定だ。

さて、寝起きはなるべくコーヒーを飲むようにしている。ひとまず豆をAmazonで激安購入したハリオのミルで挽いたものを、ハンドドリップなのかエアロプレスなのか、どちらかの抽出機にぶちこんでお湯と注ぎ入れていく。庭からはかすかな虫の音が流れ込み、今日はそよ風が心地いい。湯気が昇り立つこの瞬間だけは、精神と時の部屋にいるような感覚とはこんなもんかいなと想像してみる。

ふと、数年前、島根に移り住んだ知人の家に数日お暇していたときのことを思い出した。朝、彼手作りの一汁三菜の飯を食べさせてもらった光景が今でもくっきりと脳に残っている。

「QOL高めってこういうことなのかもね~」

彼かぼくかのどちらかがそう言ったような気もするが、「QOL=クオリティオブライフ」という言葉をやや冷やかすかのような言い草で仕事前の朝食をのどかに過ごしていた。言葉の意味はどうにしろ、丁寧そうな手間が事実そこにはあって、巻き込まれ、体感したぼくからすれば、「暮らすとは」について再考するためには十分すぎる時間だった。

そして、今、数年前と変わらない冷ややかさで、QOL高めで、丁寧な暮らしとも捉われかねない朝をぼくも迎えてしまっている。そう、迎えてしまっているのだ。たいした意図はしていない。

はっきりさせよう。丁寧なわけではなく、ただ、足りないだけなのだ。

近くに朝から立ち寄れる、おいしいコーヒーを飲めるお店がない。それどころか、そもそも朝立ち寄れそうな飲食店が徒歩圏にはほぼほぼない。そうとなれば、「てめえで淹れるしかない」という発想になり、道具を揃え、豆を入手し、寝ぼけながら手を動かすという業を繰り返すしかないのだ。

もう一度言うが、丁寧なわけではなく、ただ、足りないだけ。

しかしまあおもしろいもんで、めんどくさいと思っていた手間もやらざる得なくなってやるようになると、意外と好きな作業だったり、しんと深く考え込むためには丁度いい時間であることに気づく。

また、足りない暮しなんだけども、自分という人間は、それだけで充足できてしまう人間だとも思い知る。定期的に挽いたり淹れたりを繰り返していると、その作業もわずかばかりか上達する、つまり美味しく淹れられるようになる。実際には、自分の舌好みの味の再現性が上がったというのが正確ではあるが、コンビニやスタバ、市販のコーヒーよりは自分で淹れたほうが美味しく飲めるようになる。すると、自分でやっちまったほうが美味いし、楽だし、手っ取り早いし、の3拍子が揃う。

これが、第三者から見たときの「丁寧な暮らし」の完成なのかもしれない。津和野の知人もおそらくそうだったのだろう。彼の場合は、ぼくなんかよりももっと考えてはいて、医食同源だったり、農の循環だったり、地域と土地のつながりまでを朝食という暮らしの一部に組み込んでいるという感じなのだろうか。

とにもかくも、暮らしにおける「丁寧さ」は意図するものでもなく(意図したとして持続性はあまりないように思う)、「不足」だったり「どうしようもなさ」があるから一つの暮らしとして成り立ち、「そうなってちゃってるよね」と言わざるえないものなのではないか。そもそも人間というものが、そうなっちゃってる存在のような気もする。

その感覚がはてして正しいのか、もう一度確かめてみるためにも、ヨネスケさんばりに、どこかの地域のだれかの朝に突撃してみようかしら。